2013年9月28日土曜日

「社会学ゼミナール 「アルゴ」から見えるアメリカ」

朝日カルチャーセンターの「社会学ゼミナール 「アルゴ」から見えるアメリカ」、講師、宮台真司先生、堀内進之介先生、にいってきました。

ベン・アフレック監督作品映画「アルゴ」を見てきて、グループに分かれてディスカッションをするものでした。

「アルゴ」は、1979年に起きたイラン大使館人質事件の中で、カナダ大使館に逃げた6人をアメリカまで救出する作戦を描いた映画です。

宮台先生は、史実を描いた映画は倫理的かプロパガンダかが問われるといいます。

政治的な映画と政治的に映画を撮ることは両方あるともいいます。

グループに分かれて討議して、みんなこの映画に描かれたことが真実か否かに疑問があるという意見でした。

宮台先生は、客観的な歴史はないといいます。
どんな歴史でも、特定の視座から描かれています。史実と違うから悪いとはいえません。

S.スピルバーグの映画「ミュンヘン」でのスピルバーグの意図は、イスラエル批判だといいます。史実と違っていても、そのメッセージが大事だといいます。

「アルゴ」の冒頭で、イラン革命の経緯を描いていて、アメリカの責任にも言及していますが、これが公正なのか、単なる言い訳なのかは意見の分かれるところです。

史実でいえば、6人を救出したことで残りの52 人の人質の命が逆に危なくなったといいます。
本当はハッピーエンドとはいえない状況でした。

この映画は、悪いプロパガンダではないのかという意見が、英語のサイトとイランでだけおこって、他ではあまりおこりませんでした。

では、この映画主張していることは何なのでしょうか。

クリント・イーストウッドと比較すると分りやすいといいます。
クリント・イーストウッドは「理不尽でも前へ進む」。
ベン・アフレックは「唖然、呆然と立ち尽くす」。
アフレックはいつも「中心」ではなく「周辺」にいます。
しかし、それを逆転させて、それこそアメリカだというふうになります。

堀内先生が、M.ウォルツァーの「汚れた手」という概念を出します。
この映画は反語的に読めて、アメリカの良い面ばかりを描くことによって、実際のアメリカの不条理を浮き上がらせるといいます。

「汚れた手」というのは政治的なエリートは道徳的期待を裏切っても責任を担わなければならない、というものです。
M.ウェーバーの「責任倫理」にも関係します。

宮台先生は、その議論を受けて、それは、イエスがユダヤ教の本来の姿としてみたもの、また、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」で描いた世直しにも通じるといいます。

アフレックは「汚れた手」ではない。しかし、彼はクリント・イーストウッドが何を描いたのかをよく知っている。

最後に、アフレックの描いた世界は、アメリカの古き良き時代、過去のものなのかという堀内先生の質問に、宮台先生は次のように答えました。

オバマ大統領が先日講演で「アメリカのコア・インタレストが脅かされるときは躊躇なく攻撃する」と語った。

これは、すごいこと。チョムスキーも「これをオバマがいったら終わりだ」といっていた。
こんなに大変なことなのに、安倍首相が「アメリカについていきます」といっても日本では話題にならない。

面白い時代になった。

今までのゲームが通じなくなった。

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