2009年6月27日土曜日

宮台真司


今日は朝日カルチャーセンターで、私の最も好きな学者、社会学者の宮台真司さんの講義をききに行った。
私が朝日カルチャーセンターに行くようになったのも宮台さんの話が聴けるからだったような気がする。
むかしTBSラジオの「荒川強啓デイキャッチ」を聴いてたらコメンテーターで、若い学者がいた。当時、茶髪にしてコンビニの前でたむろしてるような若者をどう思うかというのが、その日のテーマだった。
司会の強啓さんは怒るべきだという主張だった。
私は、むしろ彼らは、叱ってくれる大人を無意識に求めているんだと思って、怒る事が彼らのためになるんじゃないかと思ってた。さて、学者は怒る必要はないという。
私には意外な意見で、どんな理屈で説明するのかきいてやろうと思った。そうしたら、学者は「これが彼らの適応だと思うんですね」といった。
めずらしい考え方だなと思った。
普通は、「大人が厳しくしろ」か「子供たちの気持ちを大切にしよう」のどちらかが多いが、どちらとも違う。
私は「この学者は、限りなくやさしく、限りなく冷たい人だな」と思った。若者を徹底的に突き放し、しかし彼らに最も望ましい社会を作ろうとしている。
さらに彼は「共同体の復活は無理でしょう」という。
私は「ついにこういう人が出てきたか。共同体のよさを味わったことがないのか。もし、共同体のよさを知っていながら言ってるとしたら、すごい人だ」と思った。
それから、毎週ラジオをテープに録って、彼の本を読んで、講義を聴き、だんだん彼の言おうとしてることがわかってきた。
はじめて彼の講義に出たのが「オウム事件」の前だから少なくとも10年以上、聴き続けていることになる。(途中入院などして聴けない時期もあったが)
はじめのころは、あまり有名でなく「援助交際」が話題になってからテレビに出たりして有名になっていく。
私は、自分の好きなマイナーなアイドルが有名になっていくようなちょっとさびしい気もした。自分だけが知ってるぞ、と思ってたのに。
そのころから講義に出るも人が多くなってきて、みんな宮台氏を褒めるが、私は「この中で、数年後まで聴き続ける人が何人いるかな?」と皮肉をいいたくもなった。
宮台氏の思想は、いくつかの画期があるので総監するのは大変だけど、私なりにまとめてみると以下のようになる。
第1期「脱構築期』
今(当時)我々が信じている常識が、比較的新しく、ある特定の目的のために作られた物で、もはやその存在意義はなくなっている事を暴露して相対化する。
「売春の非合法化」「近代的学校」「近代的家族」「共同体」「国家」などを解体していく。
主な著書「サブカルチャー神話解体」「制服少女たちの選択」「終わりなき日常を生きろ」「援交から革命へ」「まぼろしの郊外」「世紀末の作法」
第2期「実存期」
さて、今までの仕事で多くの物を相対化してきた。では、そのあらゆるものが相対化された社会で、われわれはどう生きればいいのか?
これは、読者の問いでもあり著者自身の問いでもあった。
主な著書「学校的日常を生き抜け」「サイファ覚醒せよ!」「これが答えだ!」「自由な新世紀・不自由なあなた」「美しき少年の理由なき自殺」「野獣系でいう!!」
第3期「世直し期」
いままで、社会の事を相対化してきて「社会の問題と実存の問題を分けろ」と主張した人が、自分は実存の闇に沈んでいくような時期を過ごした。そして、再び自らを「リベラリスト」と定義して、社会の変革を主張するようになる。
恐らく、実存の問題も突き詰めていけば社会の問題にぶつからざるをえなかったのではないか?
実存期の宮台氏は、読者にうったえかける形をとっているが、著者自身が苦しそうだった。自分への回答としても書いていたのではないか?その苦しさや不満を「社会の構造」特に当時は日本の近代化されてない部分にぶつける。
主な著書「透明な存在の不透明な悪意」「学校を救済せよ」「人生の教科書 [よのなか]」「人生の教科書 [ルール]」「リアル 国家論」「『脱社会化』と少年犯罪」
第4期「主意主義の称揚期」
思想の変化には、やはり時代背景が重要な意味を持つ。
一つには、宮台氏が第1期で主張していた変化が、現実の物になり、ティーンエイジャーの茶髪も男の茶髪も全く珍しくなくなってきた。家族や学校、会社や地域社会もつぎつぎに崩壊していった。相対化はもう必要なくなった。
次にどう生きるか?という第2期の問題にもどるが、それはあまり解決されたとは思えない。さらに第3期の「リベラル」な社会への変革は、徐々には進んでいるが、一方では現実に古い日本がどんどん変わっていく中で、保守系の人たちの反発が激しくなっていく。もともと左寄りのメディアとして期待されていたネットが極端に右傾化してくる。かなり「リベラル」を名のるのが苦しくなってくる。
そこで、いままでの「リベラル」な「近代主義者」という立場と「右翼」との両立の模索が始まる。そこで、出される理論が「主意主義」と「主知主義」の対立図式で、自分は始めから「主意主義者」であり、それは「リベラル」とも「近代主義」とも矛盾しないという理論を展開していくことになる。心理学的に見ると第2期もこの第4期も生き方の指針を示してはいるものの、端から見てると何か苦しそうに見えてしまう。恐らく苦しいんだと思う。
しかし、自分の社会思想を世間に主張する人は、多かれ少なかれ苦しいものなのだろう。
著書は、読者に対する答えというよりも、著者のこころの叫びのようにも聞こえる。
主な著書「絶望から出発しよう」「挑発する知」「絶望・断念・福音・映画」「亜細亜主義の顛末に学べ」「宮台真司 interviews」「日常・共同体・アイロニー」「限界の思考」「宮台真司 ダイアローグス」「幸福論」「『世界』はそもそもデタラメである」
第5期「啓蒙期」
今まで社会に対しても、生き方についても攻撃的、挑発的な発言が多かったが、最近はあまり挑発的ではなく落ち着いて今までの自分の理論を丁寧に解説するようになってきた。「14歳からの社会学」の中には母親との感動的な別れの場面が淡々と描かれいて、なにか一つ山を超えたのか、落ち着いて丁寧に語られるものが出てきた。
いままでの宮台本はオーソドックスな社会学とは一線を画していたような、著者の感情の発露のようでもあったが、最近の著作では「日本の難点」が新書で1位をとったり普通の人にも受け入れられるようになってきた感じがする。
主な著書「14歳からの社会学」「日本の難点」
と、ここまでは前置きでこれから今日の講義を書いていこうと思う。
もともとは、お弟子さんの堀内進之介さんとの3回シリーズの対談で毎回二人の思想家を解説することになっていて、今回はローティとコノリーとなっているが、話はどんどん広がっていろんな人が出てくる。
まずはウォルツァーとM.ウェーバーが出てくる。ウォルツァーは「Wiki」によるともともとリベラル左派だが「先制攻撃」を擁護したり「汚れた手」といってネオコンやナチの国法学にも通じる事を主張する。しかし、宮台さんはだからだめだとはいわない。これはかのM.ウェーバーの「職業としての政治」と共通する理論があるという。
さらには、ファシストにもいいファシストとわるいファシストがいる、私は自分をいいファシストと言っている、とかなり挑発的な言い方をする。
自分の立場を、
1.共生原理を重視する。
2.ファシズム(ある種のパターナリズム)を肯定する。
3.宗教的正統性を擁護する。
4.批判の実践をする。
と表明する。
話は民主主義から始まり、「民主党政権」ができたら、任せられるかという議論をする人がいるが、議論の立て方が間違っているという。民主党に任せるのではなく、政治家に任せていた権力を、国民が自分のものにするかどうかという問題だという。情報公開も裁判員制度も国民がうまく
国を操縦するための条件だという。
では、日本国民はうまく国を操縦できるかと問い、答えはNOだという。
欧米では、子供の時から「皆で決めた事は間違っている」と考える。しかし、他の決め方よりはマシだということで民主的に物事を決める。
一方戦後、日本人は「皆で決めた事は正しい」と思わされてきている。そこが間違えだという。
私はあるテレビで見た事を思い出した。「午後は◯◯おもいっきりテレビ」で、憲法記念日か何かで、みのもんたさんが憲法ができた時のエピソードを紹介していた。それは、ある少年二人がケンカをしていた。そこに、学校の校長先生が通りかかった。校長がケンカをしていたのかどうかきくと、相手をかばって、「してません」と少年は答えた。それをきいた校長は、仲間を嘘をついてまでかばうなんて素晴らしい。これからは「民主主義」の時代だ民主主義とは皆で仲良くする事だ。だから、君の態度は素晴らしい。という話が紹介されてた。まずそもそも、「民主主義」というのは、みんな仲良くすることではない。いったいどういう脳みそをしているのかこの校長は。「民主主義」とは、政治的決定に(条件を満たした)国民が参加する事であり、場合によってはけんか別れする事もあるのが「民主主義」なのに。「民主主義」=よいこと=みんな仲良く、という頭の悪い理解しかしてない事に驚いたが、日本人がいかに民主主義を理解していないかを示すいい例だと思って覚えていた。往々にして「共同体主義」的温情を「民主主義」的だと歪曲する事は、日本ではよくある事なのでこの校長先生を笑える人が何人いるだろうか?
まあ、ことほどさように日本人は民主主義を理解していない(「民主主義」を否定する側も肯定する側も)ので、国民に国を正しくコントロールすることはできない。
そこで宮台さんが出した解決策は単純で「エリート教育」をすることだという。
エリートと言っても偏差値の高い大学にはいった人という意味ではないのは当然。能力がありしかも利他心がある人。「民主主義」のアイロニーを理解できる人のこと。
そのアイロニーがわからなければ、さっきの校長先生と大同小異。
宮台氏は文化多元主義者なので、近代に反しない限りでの多様性を肯定する。しかし、その多様性を育む方法自体はデューイのいう感情教育であり、埋め込みである。ある種の強制である。当然危険もある。エリートが正しいと思ったものでも間違うこともある。
これは、私(鈴木)が思ったことだが、かつてアメリカでケネディ大統領のもとハーバード出身のブレーンを作ってthe Best and the Brightest といわれたが、彼らがやったことはベトナム戦争だった。つまり、エリートでも間違う。(後にマクナマラ元国防長官が当時の政策を自己批判してるのをテレビで見たが、あるいみそういうことがいえるのはやはりthe Best and the Brightestだなーと思ったことがある)
しかし、間違えるからエリートに任せるべきでないのか?
宮台氏はいう「無作為も『無作為』という作為だ」と。
つまり、やっても作為やらなくても作為、だったら少しでも良い結果を残す可能性の高いものにやらせるべきだろうと。
はなしが少し複雑になるが、多元性を認めるために、その価値観を埋め込む教育をする。
大きな目的は「文化多元主義」であり、自由な社会を目指すが、その手段としては「非民主的」方法を用いる。
たしかに一つの矛盾でもあるのだが、じゃあそれよりよい方法があるのか?ないならそれを選択せざるを得ない。いくら危ないとはいえ。(もちろんその危険性を十分理解した上で)
これが、第4期以降の宮台氏の重要なキーワード「アイロニー」である。
宮台氏の立場からすれば「アイロニー」は、否定的ではなく、頭のいい本物のエリートにとっては必要不可欠の重要な要素であり肯定的にとらえられている。
それを、はっきり理解しているのがローティーだという。
だから、何が正しいかの線引きは常に恣意的だが、「恣意的」だということを理解した上で誰かが線を引かないと社会はまわらない。そのために真のエリートを養成する必要がある。そして、一般人には100の理屈よりも1つの実践。感情教育を強制的にでもする。それはパターナリズムであり、ある種のファシズムである。しかし、民族主義的ファシズムではなく多元主義のためのファシズムである。
だから、宮台さんが挑発的に自分はファシストだというが、それはあくまでも手段だということを知っておく必要がある。ファシストだからけしからん、とかファシストだから民主主義くそくらえ、という人を宮台氏は「バカ左翼」「バカ右翼」という。
このようなアイロニーと危険についての考察は現代の政治思想の最先端の問題なのに、日本で理解してる人が少ないのを嘆いていた。
またM.ウェーバーにもどれば「責任倫理」と「心情倫理」というこなのだろう。日本では責任倫理はあまり問われない。しかし考えていけば誰でも自分(宮台)の立場にたどり着くのではないかと言っていた。
私(鈴木)の感想は、このことは宮台氏がここ数年繰り返し言ってきたことで、私なりには理解したつもりだが、こういう議論は、わかる人にはわかり、わからない人には何度言ってもわからないものだから、もうこれ以上わからない人にいわなくてもいいんじゃないか?もちろんふるいにかけるという意味では意味があるんだけど、これは議論の前提であって、次にじゃあどうするのかを考えていきたいと私は思っている。この話を一般人向けに言って、理解してもらおうと思ったらフラストレーションがたまるだけだろうと思う。わかってる人の前だけでいえばいいのにと思う。
ただ、私の立場はパターナリズムの有効性はある程度は認めるが無条件で賛成とはいえない。宮台氏は(いくら自分で否定しようとも)エリート層に属し決定する側だが、私のような一般人は、やはり無理矢理埋め込まれるのは怖いし、たとえ正しくても一応、一般の人々が賛成したうえで教育を受けられるようにして欲しいと思う。
まあ、今までと基本は同じことを言っているんだけど、聴いてること自体いい刺激になる。
宮台氏の講座、それから宮台氏の師匠見田宗介さんの「社会学入門」を読む講座があるのがわかったが土曜の昼間は編集の学校があるので行けないのが残念。

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