2009年6月23日火曜日

芸術人類学


人類学者の中沢新一さんが多摩美に来て、もう何年になるんだろう。多摩美70周年かなんかのイベントで講演を学部時代聴きに行った。ちょうど、中沢さんが多摩美に来て芸術人類学研究所を開設するとき。同じ日に、多摩美出身のユーミンのコンサートもあったが、そちらは行かなかった。
私は、中沢ファンではなかったが、自分の大学に有名な学者が来るのはうれしくて、どんなものか聴きに行った。
カルチャーセンターと違って、無料だし。
私が最も影響を受けたのは、社会学者の宮台真司さんだったので、中沢さんの本は読んだ事もなかった。
しかし、その講演(まだ多摩美とムサビを間違えたりしてたころ)は、今までの学者と全く違った目のつけどころで話されて、こんな考え方もあるんだと驚いた。
先ず最初に自分は子供の頃、小学校の国語の時間かなにかにふと、「世の中は全部ウソでできているんだ」と悟ったという。でも子供だから、それを表現したり、伝えたりするすべがなかった。
大人になって大学(東大)に行っても心に残る授業はかった。
そして宮沢賢治の話になって、賢治の生徒たちはその授業が生涯忘れられなかったという。農業と芸術を結びつけるなんて誰も考えた事もなかったといわれた。
それから、大昔の東京の地図を配り、昔、陸の突端だったところで学問が始まるといわれた。東大も慶応も早稲田も陸の突端だったらしい。詳しくは覚えてないけど、「アースダイバー」という本を出しているのでそこに書いてあるかもしれない。そして、多摩美も多摩丘陵の先で、ムサビも武蔵野丘陵の先らしい。
おもしろいものの見方をするんだな、と思った。
普通は学者は「右」か「左」かとか。どうすれば儲かるかとか考えてる感じがしてたので、予想外で面白かった。
残念ながら、私の通っていた上野毛校舎では授業はなかったので、それ以上聴くことはできなかった。
是非、上野毛でも教えて欲しいと今でも思う。というのは映像演劇学科というのは上野毛にしかないから。将来の演出家や映画監督にもせっかく同じ大学にいるのだから、影響を与えて欲しい。
大学院に行ったら教えてもらえるかなと思ってたら、芸術学科の人しか受けられない。他の先生に「聴講はできますか?」と、きいたら「研究室にきいてごらん」というのできいたらいいというので、聴講する事にした。
はじめの授業で「デザイン学科なのですが聴講させてもらってもいいですか?」ときくと、あっさり「いいですよ」いわれたので安心した。
単位も取れないのに、物好きと思われるかもしれないが、カルチャーセンターでは1講座2500円とられるから、これがもしカルチャーセンターだったら1年20講座とったら5万円かな。
それがただで聴けるんだから、私はお得だと思ってる。
では、そもそも「芸術人類学」とは何か?
同名の本も出てるので、知ってる人は知ってるかもしれないが、簡単に私の理解した事を書く。(あくまで私の理解なので、間違ってるところがあるかもしれないが、ご寛容に)
まず、評論家の吉本隆明さんの1960年代の古い、しかし今でもうってる有名な本「言語にとって美とは何か」から始まる。(ちなみに宮台氏もこの本を参照することがある)
そのなかで、言語には2つの軸があるという。縦軸が「自己表出」横軸が「指示表出」。それぞれ「価値」と「意味」に対応している。「自己表出」とは、感嘆詞のような、意味はないけどつい口に出ちゃう言語。「指示表出」とは、文字通り何かを指し示す言語。そして「指示表出」の方は指示される対象があるので数えられる。従って、そこから生まれたのが「等価交換」つまり物事を一つのモノサシで計れる世界。そこから「市場経済」が生まれた。
一方「自己表出」の方は数えられない。そして、無意識の中でつながっていると中沢先生はいわれる。そこから生まれるのが芸術や宗教であり、さらに、この講義のキーワードである「贈与」だという。
「贈与」とはあらゆる宗教の根源だという。
つまり、我々は「神」なり「阿弥陀仏」なりから「与えられた存在」であるという。
神は何の悪意も善意もなく、森羅万象すべてのものに「与える」なんの見返りも求めない。一方的に「与える」。
逆に言えば、全てを与える「贈与者」のことを我々は「神」とか「仏」とか呼ぶのではないか。
そして、その贈与の仕組みを、神秘主義的ではなく理論的に考える学問が必要だという。
「言葉」の話から、すごいスケールのでかい話になったなとワクワクした。
そして、「言葉」の世界はドーナッツのようになっていて、どうしても真ん中に穴があいてる。中心に行こうとしてもどうしても行けない。それを、厳密に数学的に証明して見せたのがゲーデルだという。(ちなみにゲーデルは「真であるにもかかわらず、けっして証明できないゲーデル数G」を厳密に数学的に証明してしまったので、タブーに触れた自分は殺されると思って、毒が入っていると思い食べ物を食べられずに拒食症で餓死した。晩年は宗教に興味が向かい「神の存在論的証明」を1970年2月10日に書く。なんで覚えているかというとその日は私(鈴木)の生まれた日だから)
まあとにかく、今までは「指示表出」「意味」の世界で「市場原理」でやってきたけど、これからは「自己表出」「価値」「贈与」についての学問が大事なのだがこちらはあまり研究する人がいないという。
バタイユの名前も一瞬出てきたからまた出てくるかもしれないが、「贈与」といえば、モースの「贈与論」や「ポトラッチ」の研究があるじゃないかと思ってたら、今日モースの話が出て、西大西洋の島々で行われる「クラ」という「贈り物をする」慣習についてのビデオを見せてくれた。未開人が贈り物をすると話ではきいていたけど、具体的にどうするのかは知らなかった。宝箱のようなものに入れて渡すようなイメージがあったが、ビデオを見るとだいぶ思ってたイメージと違ってた。
まず、何十人もの人々がカヌーに乗って隣の島へ行く。1ヶ月か何ヶ月か滞在して。お互いに懐かしがって腕輪のような物をもらってくる。行く前も家族と涙の別れがあり、帰りもその島の人たちとも涙を流して別れる。
これを何世代にもわたりずーっとやり続けてきたそうだ。
たしかに、島の中での生活だけだと飽きてしまって、ちょっと冒険で隣の島にも行ってみたくなるだろうなと思った。そのための口実の儀式かなとも思った。しかし、本人たちは真剣。命の危険もある。しかし、その島々の人たちは自然とこういうルールつくるってのはおもしろいと思った。
ビデオ見終わって先生は「我々、人間は独立してあるから孤独でしょ。そこで、物を交換する事によってコミュニケーションの通路が生まれる」「アフリカのことわざに山は出会わないけど人は出会う」というのがあると言って、コミュニケーションの大切さを教えてくれた。

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