2010年6月18日金曜日

量子


東浩紀(あずまひろき)の『クォンタム・ファミリーズ』を読みました。
買ってから3日で読み終えました。

内容は、売れない作家に奇妙なことが起こり、この世界と、それに平行する多数の世界が存在するという話です。

平行世界は時間もずれていれ、未来からメールが来るのです。そして、複雑にいくつもの平行世界に移って話は展開していきます。

著者は30代の文芸批評家、哲学者です。

批評家が小説を書くのもめずらしいと思いますが、決して素人のまねごとではなく、この作品で三島由紀夫賞を受賞しています。

僕が最初に、東浩紀の名を知ったのは『エヴァンゲリオン 快楽原則』という、アニメ「エヴァンゲリオン」を分析した本です。

それまでの「エヴァ本」では、ストーリーの秘密や、影響された作品などが書かれているものがほとんどで、僕は不満を感じていました。僕は「エヴァ」はオタクの中から、オタクを対象化した視点で描かれていることが社会的に重要だと考えていました。しかし、そういう視点からの批評はほとんどありませんでした。
ところが、その本で東氏は「庵野秀明はなぜ80年代アニメを終わらせたか」というような内容の文を書いていました。これぞ、僕がいいたかったことだと思いました。

彼は「哲学」と「オタク」とを両方を語れる、宮台真司と並ぶ希有な存在になっていきます。

哲学書である『存在論的、郵便的... ジャック・デリダについて』を買って読みましたが、3回くらい読んでも1/3ぐらいしか理解できませんでした。僕の文学の先生である青野聰さんは「デリダはわかるけど、東浩紀はわからない」といっていました。この本はサントリー学芸賞を受賞したのですが、審査員は本当に中身を全部理解したのでしょうか。

しかし、僕なりの浅薄な理解によると、「脱構築」には、「否定神学的脱構築」と「郵便的脱構築」があって、否定神学は「~ではない」というかたちで「神」を定義するのだが、郵便的とは常に「誤配」の可能性がある。そして、否定神学より郵便的の方が実践的であるがゆえに、著者は後者に重きをおく。というふうに受け取りました。

文学の授業でOBの人が「東浩紀はもう芸人ですね」といっていましたが、それは彼の哲学とは矛盾しないのではないでしょうか。彼は、常に誤配に開かれていても、実践することに価値があるというふうに考えているように思います。

『存在論的~』の最後に、「ここまでの議論で結局自分は筆をおかなければならない」とうようなところがあったような気がしますが、自分が「郵便的」を支持する以上自分も「郵便的」に生きるという宣言のように思えて感動した覚えがあります。

そうして見ると『クォンタム・ファミリーズ』の最後は、あまりにも複雑に絡まりあった多数の平行世界の中で、何とか元に戻ろうとする人たちに対して主人公は、たとえ複雑に入れ替わっている虚構の世界でも、それを全部ひっくるめて肯定しよう。その中で生きていこうと決意をするのは、『存在論的~』と通ずる、著者の価値観だと感じました。

著者は、科学哲学出身なので、平行世界の存在の理由を、論理的、哲学的に説明するところを読むと、納得させられてしまって本当に平行世界があるように感じられて、現実の感覚が変わってくるようでした。

哲学と科学と文学をしっかり勉強してきて、さらに才能があったから書けた作品であって、ある意味これらの条件を全て満たす人がいたことが奇跡的幸運ともいえるかもしれません。

ちなみに、普通の生活世界とSF的世界が隣り合わせになったような作品を「セカイ系」と呼ぶそうです。もちろん、そのルーツは「エヴァ」ですが、それ以前にセカイ系といえるかどうかはわかりませんが、平行世界を描いたものは、意外に思われるかもしれませんが、藤子不二雄の作品世界に起源をもつのではないかと思います。普通の街の日常の中に突然、未来からネコ型ロボットがやってきたり、オバケや忍者がやってくる。
日本人で子供のころ藤子アニメを見ないで育った人の方が少ないでしょう。子供のころに見ていた藤子作品が無意識のうちに影響を与えている、と考えるのも無理な話ではないと思います。
藤子・F氏は、SF短編で平行世界、藤子の言葉でいえばパラレルワールドについて書いています。
「ドラえもん」を筆頭に「オバケのQ太郎」「パーマン」「忍者ハットリ君」「怪物くん」、どれも今のSFの元になる想像力を持っているといえないでしょうか。

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