2024年4月10日水曜日

浅田彰『構造と力』

 


浅田彰

朝日カルチャーセンターのXで浅田彰さんの講座を開くことを知りました。初めはそんなに知らないので興味なかったのですが、何度も投稿されるので、少し勉強してみるかとリモートですが講座を取ることにしました。そこで、予習のために『構造と力』を読んでみることにしました。もともと浅田さんの本は、僕には難しすぎるのと、浅田さんに「斜に構えた」ような印象があったので敬遠していました。それでも、かつてTVを見てたときは、教育テレビや放送大学に浅田さんがでるのをみると、あ!でてる!と思うほどにはすごい人と思っていました。東浩紀さんのゲンロンチャンネルにゲストででていたのを見ました。鼻血を出して寝ながら喋っていたのは印象的でした。意外と他人を茶化すとかではなく、正統派な哲学を語るという印象も持ちました。


『構造と力』

この本ですが、色々語られて、80年代を先導、扇動する本だとか、何万部売れたとか、チャート式でわかりやすく書かれた本だとか、シラケつつノル、ノリつつシラケるとか、断片的情報は入ってきましたが、本書自体は読んでないので、今まではなんともいえなかったです。また、浅田さんや柄谷さんを悪くいう知識人も結構いたので、あまりいい印象はなかったのも事実です。本書を書店でまえがきだけちらっと見て「斜に構えた」印象を持って買わなかった経験もあります。実際読んでみてどうだったか。僕の印象としては、浅田さんが喜ぶかどうかはわかりませんが、意外と真面目な本だな、いや、極めて真面目な本だ、という感想です。あとがきで真面目批判をしているので、ふざけた、人を茶化した本なのかなとも思っていましたので、その先入観と比べる、こんなに真面目な本だったんだという印象です。哲学のオーソドックスをきちっと把握して、それに沿って、理論が展開されているなと思いました。しかし、この本を買った人で、用語的にこの本を理解した人は何パーセントぐらいだったんでしょうか?さらに、その真意まで理解した人は1パーセントもいないのでは?著者もそのことを覚悟して書かれている。「近代の困難」を問題にしています。それに至る、歴史的経緯を紐解き、それを超えるポストモダンをフランス現代思想の正統な解釈をもとに提唱している。これが40年前に20代の人によって書かれたとは、人々が驚き、戸惑うのも分かります。今でもドゥルーズやデリダ、ラカンは難解とされています。それを、この時代に明快に読み解くだけでも、すごいことだとは思います。浅田さん批判には、やっかみも多く含まれているのではないでしょうか。しかし、浅田さん自身の問題もあって、自分のレベルに達しない人を容赦なく一刀両断に切り捨てる。それで、恨みをかうことも多くあるようにも思うます。それが、人格的な欠点なのか、哲学的帰結なのかは分かりませんが。この本は、近代の成立を緻密に明快に分析して見せて、近代の困難を鋭く指摘して、その解決策を示したものですが、その結果が真面目批判になった。それが砂漠だと知りつつ。それは、フランス現代思想の正確な理解でもある。もちろんフランス現代思想の方が少し先だとしても、同時代の同じ問題を抱えている我々の解決策は同じものになる可能性は高い。


80年代

浅田さんの力だけではなかったかもしれませんが、80年代は真面目を笑い飛ばす文化が世間を風靡した時代でもありました。それが、僕は嫌いだった。だから浅田さんにもいい印象を持っていなかったんだと思います。でも、浅田さんもそれが砂漠だと知っていたと知って、少し印象は変わりました。社会学者の宮台真司さんは別の角度からこの時代を分析しました。今まで収入や出身で分化していた階層が、コミュニケーション能力の高低によって分化していったと宮台さんは説きました。それは、僕にとってはしっくりくる分析でした。先程もいったように『構造と力』を正確に読めば、真面目批判が砂漠だということは認識されていました。でも、世の中は、セゾン文化やフジテレビの「楽しくなければテレビじゃない」という「軽チャー路線」がもてはやされ、それに乗り遅れた人が、オタク化していったのを身を以て感じていた世代です。ちなみに僕は1970年生まれです。ネアカ、ネクラという言葉が流通して、ネアカな人がネクラの人を苛める構図も見られ、それが嫌だった。浅田さんの本の、本当の理解者ではなく、その上澄みを自分なりに都合よく解釈して正当化するような人たちも多くいたと思います。浅田さんは苦笑して見ていたはずです。オタクの持っている怨嗟の問題は後に、オウム真理教事件にも影を落としていると、僕は思います。それに対して90年代は、80年代の強迫的なネアカ競争、「笑われる前に笑え!」というものが落ち着き、オタクも社会から認められる存在になり、フラットになった印象があります。それは、とても80年代に比べて生きやすかった。僕のようにネアカにもなれずオタクにもなれない者にとっては、80年代の世間はとても、とても生きにくいものでした。そんな、80年代ルサンチマンを持っている身としては、浅田彰さんの『構造と力』は、手放しでは肯定しがたいものが、感情的に、あります。でも、本書を実際読むと、確かに真面目批判は最後の解決策のように書かれていますが、あのような強迫的なネアカ、フザケ競争とはちょっと違うとも感じました。また、浅田さん個人の問題ではなく思想自体がポストモダンを指し示していたので、正統に哲学を読めばああいう書き方になるかなとも思いました。そしてあのとき、あの本が出るのはしょうがなかったとも思いますが。ドゥルーズが自殺した現在。ポストモダンを全肯定できるのかという疑問もあります。もちろん、浅田さんは、ポストモダンの苦しさを知ったうえで主張されてたことでしょうが。でも、今考えるとあれは、あの時代だからあてはまった戦略じゃないのですか?という疑問も湧いてきます。現在でも、通用すると考えるのか、現在は違うのかも知りたいところです。

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