2010年5月18日火曜日

ヘヴン


今日、川上未英子さんの『ヘヴン』という小説を読みました。
苛められっ子の物語です。
始めは、苛めをリアルに描いた小説だと思い、中学生でこんなに観念的なことばを話す子がどれだけいるか。そう簡単に苛められた男子と女子が仲良くなれるかと疑問を感じましたが、後になるにつれて、内容はどんどん深くなります。

見せ場は、「体育館での苛め」「苛めっ子の理論」「最後の苛め」ですが、「体育館」は表現のリアルさであり、「最後の苛め」はその残酷さと主人公の心理描写でありますが、最も重要で、多くの人の心に残るのは「苛めっ子の理論」の部分です。

苛めっ子と偶然会った苛められっ子は、不当な扱いを批判して「自分がやられても、いいのか?」と問いただします。
それに対して、苛めっ子は、「『自分がやられたら嫌なことはやるな』というのはウソであり、ごまかしだ」といいます。
そして、「殺したければ殺せばいいじゃないか、でも君はできないだろう」といいます。
「君が苛められているのは身体の障害のせいではなく、単なる偶然だ」といいます。

多くの読者が、この苛めっ子の論理には反論できず戸惑うのではないでしょうか。
僕はこのような、感性はいい悪いは別にして「神戸小学生連続殺傷事件」前後にある程度頭のいい少年たちに共有された感覚ではないかと思ってきましたが、この小説でそれをはっきりと論理化されたように感じました。

さて、「苛められっ子の理論」と「苛めっ子の理論」のどちらが正しいのでしょうか。

「苛められっ子の理論」は哲学者のカントが定言命法(あらゆる条件から独立した絶対的命令)でいった理論と同じです。
ちなみに、僕は哲学は入門書ぐらいしか読んだことがないので、詳しいことが知りたい方は専門家にお聞きください。
カントは「汝の意思の格律が常に同時に、普遍的律法の根拠となるよう行為せよ」といいました。これが道徳の基本だと考えました。

それに対して、哲学者のニーチェは、「経験世界を超えた絶対的道徳などはない」と断言しました。
「道徳」や「真理」は、常に弱者が自分の身を守るために捏造したものにすぎないと考えました。

「苛めっ子の理論」はニーチェ的と言っていいでしょう。

どちらの立場をとるかは、人それぞれでしょうが、この小説で、そこまで哲学の根源的な問題を提示していることには驚きました。

この小説の面白く、凄いところはここまで完璧に「苛めっ子の理論」を表現しながら、じゃあ苛めっ子の立場で「世界の欺瞞の化けの皮を剥がしてやれ」という単純でありがちな方向にはいかず、最後まで苛められっ子の視点で書かれ続けていることです。

苛められっ子と同じく苛めにあっている女の子が、全く別の論理で自分たちを正当化します。「私たちは、弱さによる強さを持っている。彼らは私たちが怖いのよ」と。

苛めっ子と苛められっ子、正反対の両立不可能な論理を両方とも深く理解した上で描いている。これはすごいことだと思います。

僕には、女の子の理論よりも、苛めっ子の理論の方が胸に突き刺さりましたが、簡単に同意するつもりはありません。しかし、このような問いを投げかけられるだけでもこの小説の重要性は認められるべきでしょう。

蛇足ですが、一部、思ったことを書きます。「最後の苛め」で安易に雨が降ったから助かったとしなかったところはよいと思います。作者は驚くほど男の子の描写もリアルなのですが、女の子の気持ちを僕らはこの小説で知ることができます。女の子は自分が裸になることに、プラスであれマイナスであれ強い力を感じているのかなと思いました。
不満はエンディングです。これだけ苛められっ子と女の子の関係を書いていて、ラストは女の子との関係はなくなって終わっているのです。しかも、女の子の嫌がった手術をして。
それ以前に「ヘヴン」と名づけられた絵や、1999年に会おうとか伏線があるのでその結末を期待していたのが、それも出てきません。あまりにも平凡な終わりかたなので、もうすこし全体にかかわる落としどころが見たかったというのが正直な感想です。

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