2010年10月30日土曜日

宗教現象


今日は雨の中、朝日カルチャーセンター新宿校で社会学者の宮台真司さんと同じく社会学者の大澤真幸さんの対談「宗教現象としての社会」を聴きにいってきました。

宮台さんが熱があるようで、いつもとくらべてちょっとボーッとした感じで、穏やかに話されました。

大澤(大)宗教現象としての社会とはおかしいのではないか、逆ではないかと思われる方もいるかと思うが、T.パーソンズは社会を宗教現象としてとらえていた。

現在、近代合理主義になって脱呪術化したかといえばそうではなく、オウム真理教事件やアメリカ同時多発テロなど宗教が問題になってきている。

宮台氏は宗教的なものに関して、あるいみ肯定的に見えるが、どうか。

宮台(宮)学部の先輩でお互いに学者にはならないといっていたのにこんなふうに話すのは感慨深い。

社会学との出会いは、高1のときE.フロムの『自由からの逃走』を読んだ時。
さらにフランクフルト学派のものを読んで、ファシズムや、理性の暴力性をこんなにすっきり説明できるのかと感動した。

東大にアウェアネストレーニングを持ち込んだのも自分。
トレーナーの人が「こんなものは完全に機械的なものだ」と教えてくれた。
神秘体験をおこすことは実は簡単。しかし若者はそういうフックにすぐに引っかかってしまう。
「別にいインチキでもいいじゃないか」と思うようになってきたがその感覚が皆にひろまっていった。2000年あたりから。
この世界はまじめに生きるに値するかという疑問が生じてくる。
たわむれて生きろ、と言ったら自殺者が読者の中からでたので戦略をかえた。
「意味から強度へ」を「社会から世界へ」とした。

大。どういう意味で社会が宗教現象か。
社会とはコミュニケーションの連鎖である。どうして理解しあえるのかは、背景にある状況にある。
では、背景に根拠はあるのかと問いつめていくと、最終的に根拠はない。全てのものが根拠がない、未規定。
未規定なものを見えるようにしたのが宗教である。

そこに全ての未規定性をあずけるのが「神」。
ルーマンによると、神とは暗号=サイファ。

社会が可能であるとはそこに宗教がある。
有名な社会学者は宗教社会学者であった。
ヴェーバー、デュルケム、ジンメル、パーソンズ、ルーマン。

一方で、近代の思想は宗教批判を含んでいる。
カント、ニーチェ、マルクス、ポスト構造主義。

宮台氏は単純な宗教批判者ではないように思うが。

宮。1989年に書いた宗教の定義は「前提を欠いた偶発性を無害にする装置」。
クリプキはユダヤ人で天才分析哲学者。
ヴィトゲンシュタインのパラドックスを主張。
1+1=2が真実かどうかは誰もわからない。ただ経験的に正しいと思われているだけで、もしかしたら別の理論が発見されるかもしれない。このように世の中のあらゆる言説はただそれがそうだと信じられている事実性によってのみ認められている。

また、固有名は述語の束だと考えられていたが、そうすると述語が変わると別の人間になってしまう。
固有名は述語の束ではない。世界の唯一性によって示される。
世界は一つである。だから固有名は成り立つ。

なぜユダヤ人がこのように考えるのか。かれらはディアスポラ。存在理由を保つ為に戒律を作ってまもってきた。
世界が一つだからユダヤ人も成り立つ。

合理的に考えていくと未規定なものをどうするのかという問題が出てくる。そこから宗教は生まれる。

サイファ=暗号をはりつけるやり方はいろいろある。生活形式に依存している。
世界の外に神様がいると思っているけど、それは君の生活形式によっているのではないかといえる。
ある種の育ちかたをすれば未規定なものから始められる。

大。クリプキは若い頃一緒に読んだ。
意味は究極的には未規定。
人間のルールは何の根拠もない。現にあるコミュニティが受け入れていることが正しいとされる。コミュニティが「神」や第三者の審級であったりすると宗教。

暗号が「神」。人間の言語にも暗号がある。名前。例えば「宮台真司が社会学者でない」という命題は有意味。述語から名前を規定できない。固有名は規定できないもの。
クリプキは宗教を裏から説明している。

ところで、一神教の伝統のない日本人に宗教を教えるにはどうしているか。

宮。「神」はコミュニケーションできない、と教える。日本の神々のようにお百度参りをすればご利益があるわけではないという。

大。コミュニケーションしない「神」の方が特殊で、人類学的にいえば日本の神々の方が普通に見られる。

コミュニケーションしない「神」は、宗教をつきつめたもの。決定不可能、未規定なものを引き受けてくれる。ムハンマドにちょっと話をするが。

自分は宗教批判的だが、はじめは宗教に入っていって内側から批判したい。

宮。自分はペロポネス戦争以前のギリシアの「万物学」に関心がある。
プラトンの『パイドロス』の中でソクラテスは、規定不可能なものを絶対神にたくすエジプト的なものは弱いといっている。

初期ギリシア、そしてニーチェ、ハイデガー、フランス現代思想を肯定する。
後期プラトンから1970年代ぐらいまでの「形而上学」の方が例外である。
それは、近代化の役割を果たしたけれど、今は副作用が大きい。

では、人間はそれほど強いかという疑問が出てくる。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』は1960年に編集を変えられている。元は冒頭でカンパネルラが死ぬ。それが、旅の後にカンパネルラ死ぬとなってしまった。

宮沢賢治は日蓮宗の田中智學の国柱会の会員だった。

カンパネルラとジョバンニが友達であったか。「親友になれるのに・・・」と書いてある。
カンパネルラは学者の息子ですごい家に住んでいる。

これは、ジョバンニの階級的怨念。死ぬべきして死んだ。
しかし、旅でカンパネルラは自分の思っていた人ではないとわかる。
自分よりはるかに他人の幸せを考えている人だった。

つまり、世直しのはなし。
世直しは間違ってしまうことが多い。
必ず人は死ぬ。
しかし、でもしかたない。
誰にも本当の幸せはわからない。でもしなければならない。

ローマ法王ベネディクト16世、ハーバーマスとやりとりをする。
若い頃は改革派神父だったが、のち異端審問に転向する。
世直しはしなければならないが、法王がいってしまえばキリスト教が終わってしまう。

世の中には、世直し、現世利益的宗教といやし系、来世的宗教がある。
日蓮宗は前者に重きをおき、浄土真宗は後者に重きをおく。

世直しは、革命家が独裁者になる皮肉におちいる可能性がある。
いやしは、現実問題を放置することになりかねない。

未規定なものに向かう。しかし人間は弱いもの。かりそめであれ背中をおす仕掛けがあってもいいのではないか。

大。ハーバーマスは現代の問題は宗教的に語られないからどこかものたりないといった。

『銀河鉄道の夜』は、ある意味での宗教批判。単純に退けるのでもなく、本当の神とは何かをめざす。手の込んだ文章。

「神」の名をみだりにとなえてはいけない、というのは「神」は定義できないから。
中世に否定神学という考えがあって、「神」は何であるのかは定義できない、だから何でないという形でしか定義できない。

東浩紀さんの『存在論的、郵便的』では、比喩として否定神学的という表現がある。
何かを否定しているつもりでも、否定しているものの範疇に入ってしまっているではないか、という批判。
未規定性といっても、それじたい宗教の範囲に入ってしまうのではないか。

宮。ことばが通じてると思っている段階では否定神学の範囲内。
ことばじゃないもの、流れに突き動かされた経験が重要。

よい宗教と悪い宗教があるわけではない。
よい宗教者、悪い宗教者はいると思う。
よい神父様は、こちらの疑問に思っていることに十分にわかっていて順次答える。逃げない。パフォーマティブに振る舞う。

大。『銀河鉄道の夜』のように宗教の内から宗教批判をやりたいと自分は思っている。
ブレヒトの劇の中の台詞。
「神」は存在するかどうかをたずねられて「君はそれによって生き方が変わるのか?それなら君には「神」が必要だ」

「神」を声高に否定する無神論者は実は「神」が必要。

クリプキも一種の宗教批判。

宮。クリプキは宗教がどこからきているのかをいっている。宗教の必要性を説いているとも読める。

中2の時に読んだ高橋和巳の『邪宗門』に大きな影響を受けた。
新興宗教の教祖の家に生まれた青年が革命家になろうとしたが結局、宗教を継ぎ破滅する話。
ありそうもないことをやっているのがすごいと思った。

イエスも普通ならありえないことをやっていったので、ミメーシスがおこって後々語り継がれていった。

大。宮台氏と対立してるようで似ている。

中世の十字軍の時代の説話。
老婆が片方の手に水、もう片方の手にはたいまつを持っていた。水は地獄の火を消すため、たいまつは天国をもやすため。
もし人が天国に入りたいからよいことをしたら、地獄に堕ちたくないから悪いことをしなかったら神はよろこばれるだろうか」

宮。二人の素潜りダイバーがいて、一人は自殺してしまう。二人とも社会から世界へ行ったが、片方は社会にかえってきたが、もう一方はかえれなかった。

どうやって社会にもどるかも重要。

大。自分も宗教に入っていって、戻ってくることをしたい。そのときは宗教の見方が変わっているはず。これが自分のやりたい宗教批判。


以上。


深く長く大きな話を聴きました。根源的な問題をこれだけ濃く語られるのもめずらしい感じがします。とちゅうで、精神が不安になるぐらい深い話でした。これをじかに聴けてありがたいことだと思いました。

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