2015年8月19日水曜日

『とりかえばや、男と女』河合隼雄

『とりかえばや、男と女』河合隼雄、を読みました。

日本の古典『とりかえばや』をユング心理学者が分析した本です。

性の問題を心理学的にどう考えるかという疑問から読みました。

『とりかえばや』の物語は、姉弟が男女が入れ替わって育っていって、そこで色々な問題が生じる話です。

ユングは男性の中のたましいは女性像で、女性の中のたましいは男性像で現れるとし、それぞれアニマ、アニムスと名づけました。

河合氏はそれを次のように解釈します。
無意識には、「たましいの元型」というものがあるかもしれないが、「元型」とはそれ自身分らないものであるので、常に「元型イメージ」として自我に把握される。そして深いところにはおいては両性具有的なイメージとなり、次に男女の対イメージがある。それが男性的自我には女性として、女性的自我には男性として現れるのではないか。

なるほど、分りやすいと思いました。男女ともに無意識には両性具有的存在を持っているのだということが分ります。

ちなみによく、男女の入れ替わる話がありますが、そのときは多くは男女ともに美男美女であるように思います。人間美しくなると男女の区別がつきにくくなるのかもしれません。美男美女だからこそ入れ替わりの物語がエロティックに感じられるのではないでしょうか。

続いて著者は、西洋のロマンチック・ラブと日本の性愛との違いを述べます。
西洋のロマンチック・ラブは、もともとキリスト教の神への愛が世俗化したもので、その愛に性愛は含まれないとのことです。
日本の場合は一夫多妻制だったので全く違うといいます。

物語には偶然が作用しますが、最後の方で、「偶然」について書かれた部分で感銘を受けたところがありました。

「人間がまったくの偶然と思っていることでも、よく見ていると偶然とも言い難いことがある。・・・三点ABCがあるとすると、これは別に何ということもない三角形である。ここで、こんなのは何のこともない偶然にできた三角形さ、と思う人と、正三角形が少し変形している→正三角形のはずだと思いこむ人とがある。前者の人は偶然を偶然のままに棄ててしまう人である。後者は偶然に何かを読みとろうと焦りすぎる人である。ところが続いて点Dが見えてくる。ABCを正三角形と見る人は、Dの存在を無視するであろう。しかし、ABCDを二等辺の台形と思いこむ人もあるかも知れぬ。その人は、続いて点EFGが出てくると、うるさいと感じるかも知れない。しかし、A・・・Gの点を全体として眺める人は、それが同一円周上にあることに気づき、次は、Hあたりに点があらわれないかなと予想してみたりもできるのである。」

「偶然の意味ある一致」というユングの概念が少し分った気がしました。

全体を通して、男女の仲というのは単純に男対女といえぬ深いものがあるのだと思いました。

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