2009年8月21日金曜日


その日、ハンスは自転車で友達の家へ遊びにいった。海岸線は果てしなく続く堤防で仕切られていた。
オランダは、国土の1/3が海面下にある。数百年にわたって干拓を繰り返し、新しい国土を作り上げてきた。その為、海岸沿いの多くは堤防で仕切られていた。
夕方の教会の鐘が鳴ると、ハンスは家へ帰る事にした。
友達の家は海の近くであった。ハンスは少し寄り道をして、堤防沿いを自転車で走ってみようと思った。
堤防は長く続き、終わりが見えない。
彼の走る道は、人通りもほとんどなく、ハンスは独り爽快な気分で真っ直ぐにその道を走り抜けた。
堤防はどこまでいっても続いているので、ハンスは、どこかで休もうと思った。
自転車を止め、堤防に近づき、堤防に触ってみた。
何の味家もない、コンクリートの壁だが、「これが、僕たちの国を支えてくれているんだ」とハンスは思った。
そして、腰を下ろし堤防によりかかって脚をのばした。すると、何かかすかな物音が聞こえてくる。耳を澄ますと水がちょろちょろ流れる音だった。
あたりを見渡して見ると、堤防にちょうど指の太さほどの穴があいていて、水が流れている。
「このままじゃ大変だ」ハンスは思った。
丁度、先週学校で、昔堤防が壊れ何千人の人が死んだ話を聞いたばかりだった。
堤防は、ちょっとした穴からも決壊する。なんとかしなければと、ハンスは取り敢えず自分の人差し指をその穴に差し込んだ。すると、水の流れは止まった。
ハンスはほっとした。
が、しかし、しばらくしてハンスは思った。「では、これからどうしたらいいんだろう」
もしハンスが指を抜いて街の大人たちに知らせに行くとしたら。その間に堤防は決壊するかもしれない。そうしたら、たくさんの人が死ぬ。自分も死ぬかもしれない。だから、指を抜く事はどうしてもできなかった。
しかし、このまま指を差し込んでいても、堤防が自然になおる事はありえない。
人もほとんど通らない道なので、助けを呼ぶ事もできない。
考えれば、考えるほど自分が絶望的ジレンマに陥っている事がわかってきた。
「僕は、このまま死ぬまで指をぬく事ができないの?」
唯一の可能性は、たまたま通りかかった人がハンスに気づいて、大人の人を呼んで来てくれる事だった。それに賭ける以外の道は、ハンスには残されていなかった。
人通りの少ないこの道、いつか誰か通るんだろうか?
自転車で走ったときに会ったのは二人だけ、しかも一人は近くの別の道を歩いていた。
狭い道なので、車はまず通らない。
どう考えても、絶望的な予測しかできないので、ハンスは考えるのを止めた。
緯度の高いオランダでは、夏は太陽は夜中まで落ちない。
あたりは、すこしづつは薄暗くなって来たが、いつまでたっても真っ暗にはならない。
「きっと誰か通りかかるさ」そう自分に言い聞かせて、ハンスは違う事を考えようと努力した。
「そういえば、昨日学校で褒められた。やっていった宿題が満点だった。まだ、お父さんにも、お母さんにも言ってない。もし言ったらお母さん何て言うかな?ぎゅっと抱きしめてキスをして『よくやったわね。これでこそ本当の私の子』って褒めてくれるかな」ハンスは一人微笑んだ。
何時間たったろう。ハンスはだんだんお腹が空いてきた。しかし、どう考えても食べる事はできない。「このまま僕は飢え死にするのかな」ハンスはもっと心細くなってきた。そしてまた空想を膨らませた。「クリスマスの晩、おいしいお肉をお父さんが買ってきてくれて、みんなのお皿に分けてくれた。おいしかったな。何の肉だったけ。羊かヤギかな?また食べられるのかな?食べられたらいいな」
夜も更けてくるとたとえ夏でも気温はどんどん下がっていった。ハンスはシャツ一枚で出てきていた。まさか、こんにおそくまで外にいるとは思わなかったから。
「寒い、だれかセーターか上着を持ってきてくれないかな」
体がガタガタ震えだした。ハンスのできる事は、自由な左手で、腕や脚をこする事ぐらいだった。しかし、堤防の穴は上の方にあるので、しゃがむ事すらできない。
「寒い、寒い。どうしたらいいの?ねえ、お母さん。神様」
寒さと同時に襲ってきたのが尿意だった。今までごまかしてきたけど、もう我慢できない。「この格好でどうやっておしっこすればいいの?」
ハンスは左手でズボンのチャックを開けようとするが、身体が固定されているので、何回やってもうまくいかない。寒さで手も思うように動かない。ハンスがあきらめた瞬間、小便があふれでてズボンを濡らした。ハンスは目に涙を溜めて思った。「誰かに、見つかってほしいけど、こんな姿で見つかるなんて死んだ方がましだ」
時間は経ったが、ハンスを取り巻く状況には何も変化はなかった。ハンスは、何時間もずっと、道と堤防のコンクリートを眺めるしかなかった。
「退屈で、何もやる事がないや、せめて時間をつぶせるものでもあればいいのに」
彼の視界に入るもので、動くものといえば、たまに飛んできて堤防にとまるカモメぐらいなものだった。それでも、ハンスは、たまにくる鳥たちにわずかながら、心を休めさせられた。
身体は右手の人差し指を基点に固定され、全く自由が利かない。少し力を抜いて、指に重心を移すと、他の部分は、一瞬楽になる。しかし、指には、耐えきれない痛みが襲う。そしてまた、きちっと立ち上がり、また疲れると力を抜く。その繰り返しだった。しかも、いつまで続ければいいのかもわからない。しばらくは、身体の節々が痛くなったが、もうハンスは気にならなくなってきた。体中から刺激は絶え間なく送られてくるのだが、もうそれらにいちいち対応するのに疲れていた。
ハンスは思った。「お母さんたちはどうしているんだろう?」友達の家にいって、帰ったことは皆知っている。でも、堤防の道に行った事を知る人はだれもいない。「きっと、心配して色んなところを探してるんだろうな、でもまさかこの道にいるとは思わないだろう。この道沿いには堤防しかない、ほとんど誰も通らない道だから」
「僕はこのまま死ぬのかな?もう、お母さんにも、お父さんにも、妹にも、友達にも、先生にも、神父様にも、誰にも会えないのかな?今日、友達の家に行ってくるっていった。あれが、お母さんと話した最後の言葉になるのかな?お父さんと話したのは夕べだ。今日は早くから、仕事に出かけた。大工の仕事はいつも朝が早い。だから、今日は、お父さんとは会えなかった。夕べ食事のときに、昔の話をしてくれた。若い大工の見習いが、注文主の娘と結婚したんだ。細かい話を聞くと、お父さんも、お母さんも照れて、それ以上教えてくれなかった。妹のアンナはもう1年生になって、しっかりしてきた。いつも、僕の後をついてきて僕の真似ばかりしてた。僕がいなくなったら、どうするんだろう。でも大丈夫だろう。この前も一人でお使いにパン屋さんにいったし。お釣りは忘れてきたけど。1年生にしては立派なもんだ。僕がいなくなっても、ちゃんとお父さん、お母さんのいう事を聞いて、いい子になってくれよ。そういえば、去年の夏休みに家族みんなで、湖の近くのバンガローに泊まったな。お父さんが斧で薪を割って、お母さんは、森の中で野菜やキノコ44を探して、それをみんな大きな鍋に入れて、スープを作ったっけ。それをみんなで外で食べて、肉を焼いて食べて、デザートにお母さん手作りのクッキーを食べたんだ。美味しかったな。アンナはまだ小さくて、スープをふーふーいって冷ましながらすすって、最後においしかったってお母さんが聞いたら、『美味しくない!』って。みんなで大笑いしたんだよね。去年の事なのに、なんかすごくなつかしい。来年もまた行けたらいいな。いけるかな?お父さんも仕事が忙しいし、お母さんは最近からだをこわして、しばらく寝てた事もあるし、もう無理かな?あれが家族そろっての最後の旅行になるのかな、ああ身体がまた痛む。どうしたらいいんだろう。家にいるときは、痛いところをお母さんがさすってくれたけど。右手が全然使えない状態じゃさするのは無理だ。ああ、お腹がすいた。今まで食事なんて当たり前に食べてたけど、本当に食べられなくなるとこんなに辛いんだ。誰か食事を持ってきてくれないかな。お母さんの作ってくれた、チキンスープが飲みたいな。アンナにも会いたい。アンナは優しい子だったな。おやつのチョコレートが一つだけ余ったら、いつも人にゆずってあげてた。アンナもお食べよといってもお腹いっぱいっていって。甘ったれで、わがままなところもあるけど、本当は優しい子なんだ。僕は知ってるんだ。お父さんにも会いたい。いつも僕ら兄妹を肩まで持ち上げて、僕らを同時にだっこするんだ、あんなに強くて優しいお父さん。また僕のことを持ち上げて欲しい。食事のときの大きな笑い声が聞きたい。お母さんにも会いたい。こんな姿を見たらなんていうだろう。きっと黙って、抱きしめて頬ずりをしてくれるだろうな」ハンスはこの苦しい現状から目を背けたくて、思い出の世界へと入っていった。
しかし、現実はハンスには容赦なく襲いかかってきた。尿意に続いて便意に襲われた。
「おしっこならまだしも、ウンコまみれで発見されるのは嫌だ」
その時、遠くから何か物音が微かに聞こえた。
「だれか、来た!」
ハンスの気持ちは瞬時に、絶望から希望にかわった。
「助かるかもしれない」そう思うとハンスはオランダ語のテストで百点をとった時の何倍もの歓びで満たされた。確かに自動車のエンジン音だ。だんだん近づいてくる。
ハンスはありったけの大きな声で叫んだ。
「おーい!!おーい!!ここだよ!ここに人がいるんだよ!」
車の音はさらに近づいてくる。
「僕に気づいて!僕はここにいるよ!」
音の方向には、林がある。ハンスは、その林を目を凝らして見つめながら叫び続けた。
「おーい!気づいてよ!いかないで!」
車の音が一番近づいたとき、林の奥にヘッドライトのかすかな明かりが見えた。
「お願いします!助けて下さい!あなたしかいないんです!」
しかし、その一瞬の明かりは消え、車の音は、今度はだんだん遠ざかっていく。
「気づいて!こんなにお願いしてるのに!」
音は、どんどん小さくなっていった。
「どうして、気づいてくれないんだ!もうこんなチャンスは二度とないかもしれない・・・」ハンスの絶望は、以前の数倍になった。
「どうして?どうして、きづいてくてないんだ」左手の拳で堤防の壁を、何度も叩きながらハンスは涙を流した。
いくら夏が近いとはいえ、辺りはそろそろ暗くなっていった。
ハンスの絶望は諦念に変わった。
再び便意が彼を襲った。もうウンコまみれで見つかろうが、そんなことはどうでもよくなってきた。彼はズボンも下ろさずに便を垂れ流した。悪臭があたりを覆った。彼は自分の存在を確かめるかのようにその臭いをかいだ。どう考えても、こうするより他なかった。彼は、鼻をすすりながら、自嘲的に少し笑った。
「どうして僕が?どうして僕だけ?何かわるいことをしたのか?」
彼は、どうせ死ぬんだから、もうこんな所にいないで、家へ帰ろうか。どうせ死ぬんだから、せめて家族と一緒に死ぬ方がいいか?他の人のことなんてどうでもいい。今すぐこの指をはずし、家へ帰ろうかと思った。
しかしハンスには出来なかった。このまま自分が死ぬだけならいいが、もし自分が帰れば、死ななくてもいい、お父さん、お母さん、妹、街の人たち皆が死ぬ。そう考えると、どうしても、指を抜くことは出来なかった。
「神様、どうして僕にだけこんな苦難を下さるのですか?僕は、一生懸命勉強して、親孝行もしてきた。妹にも出来るだけの優しい気持ちで接してきた。確かに嘘をついたことはあります。機嫌の悪いときに家族に冷たくしたり、妹をからかって面白がったこともあります。でも、それくらいなら他の人だってやってるじゃありませんか。いや、他の人の方が僕よりひどいことをしている。僕は毎週日曜日には教会に行ってお祈りしてるし、ほんの1ギルダーの寄付もしてきました。それなのに、なんで僕だけがこんなに苦しまなくっちゃいけないんですか。神様、どうかお答えください」あたりは、暗闇。糞尿の異臭が漂う中、彼は立ち続けていた。周りの風景には何の変化もなかった。
ハンスはそのとき教会で聴いた聖書の一節を思い出した。
「迫害されるものは幸せである。なぜなら天国は彼らのものだから」
「天国ってどんなところだろう?うちより大きなお家があるのかな?お母さんよりおいしい料理を作る人がいるのかな?もし天国に行ったらまず何をしようかな。美味しい木の実を食べて、毎日のやまを駆け回ったり、魚釣りをしたり、毎日好きなことをして過ごそう。たぶん学校もないし、宿題もないし、先生に怒られこともないんだろうな」ハンスはわずかな睡魔に襲われた。
意識がもうろうとしてきた。身体の痛み、飢え、渇き、悪臭、容赦なく襲ってくる苦しみの中、彼はずっと立ち続けていたが、堤防によりかかり目を閉じた。もちろん指は穴にはめたまま。
「でも、僕は本当に天国にいけるのかな?死んだら、どうなるのかな?神父様は人間が死んだら、先ず煉獄(れんごく)にいって、裁かれるんだ。本当に天国にいける人かどうかを。僕は行けるかな?お父さんや、お母さんのいいつけを守んなかったときもあったし、だったら地獄に行くのかな?地獄ってどんなところだろう?苦しみが永遠に続くのか、だったら今の僕みたいじゃないか?ははは、もう僕には生きてることも、死んだことも同じなんだ。今日は月曜日、唯一この道を通る清掃車は毎週月曜日にくるんだ。今日はもう来たってことは、次にくるのは一週間後だ。それまでここには誰もこなさそうだ。一週間何も食べなきゃ、どんな人も死んじゃうね。それまで何度かおしっこやウンコをして、皆に笑われ、臭いって嫌われて・・・もう考えるのも疲れてきた。どうせ死ぬなら、せめて、ベッドの上で死ねたらどんなにいいだろう。コンクリートに指を入れてたったまま、ウンコやおしっこまみれで死ぬなんて、かっこ悪いね。まあ、死んじゃえば、そんなことどうでもいいか。少し眠くなってきた。もしかしたら神様が最後の安らぎをお与えになって下さったのかな。このまま眠るように死ねたらうれしい・・・」
翌週の月曜日
いつものようにゴミをたくさん入れた清掃車が通る。運転手が同僚にいった。
「おい、あそこ堤防に何かよりかかってるぞ」
「どれどれ。あ、ほんとだ。何だありゃ?」
「もう少し、近づいてみよう」
車が横について止まった。二人の清掃員が、車から出てみると、一人の少年が堤防によりかかっていた。
「大変だ。救急車を呼ばなきゃ」
「いや、待て。よく見てみろ」
少年はすでに息はしていなかった。そしてその指は堤防にしっかりと入ったままだった。
「この指の先は、堤防の穴だ」
「それを、ふさいでたんだ」
「この子がいなきゃ、俺たちも洪水で死んでたかもしれない」
清掃夫は十字を切って祈った。
「先ず、土木工事屋に連絡しろ、穴を塞いでからこの子を運び出す」
「そういえば、一週間前ハンスって子が行方不明になったとかで騒いでましたが」
「一週間か・・・」
二人の清掃夫は沈黙した。
ハンスの葬式のミサは慎ましやかに行われた。
しかし、その街の人々はハンスの名を生涯忘れることはなかった。
2009年6月16日

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