2009年8月9日日曜日

iPhone


一週間くらい前、iPhoneを買った。
昔はいつもカメラとケータイとiPod nanoを持っていて、ポケットがいっぱいだった。今の技術ならこれらが一つになれるだろうに。なって欲しいと思ってた。iPhoneがアメリカで発売されたとニュースをちらっと見たとき、やっぱりでたか、しかも思った以上に魅力的だと思った。
実を言えば、今まで使っていた携帯にもカメラ機能も音楽再生機能もついていた。しかし、その写真をコンピュータに入れるのがどうやっていいかわからなかったし、音楽を聴くには専用のコネクタをつけなければならなかった。
他の音響機器メーカーの人は、こう思うのではないか?
「うちの製品は、iPodより小型だし、スピーカーもマイクもついている。シャッフル機能もついている。値段も安い。デザインもずいぶん気を使った。それなのに、なぜみんなiPodを買うのか?」
そこが、デザインを勉強したものとしては、大変重要な点だと思う所である。
結論から言うと、「デザイン」とは単なる「形」ではない、というこだ。
私も、昔はデザインとは小奇麗なものを作ればいいと思っていた。
絵画教室で絵の先生に「『絵』を描くにはテーマを決めて自分を表現しなきゃいけないけど、デザインはテーマはクライアントから与えられているから、誰でも出来るんですよ」と言ったことがある。
「デザイン」を「二流のデザイン」に変えればこれは正しい。世の中、みなさんの周りにも本も雑誌も機械も服もあるでしょう、それらはみんな誰かがデザインしたものだ。しかし、デザインの専門学校では私はどうしてもうまい、かっこいいデザインが出来なかった。「いいデザイン」って何なんだ?何を基準にしたらいいのか?悩んだ。それを学べる所はあるのか考えた。
美術が学べる学校紹介の本を買ってきて読んでいくうちに、いろいろ専門学校はあるけど、私のような本質的な悩みに答えてくれる最高の場所はやはり大学だな、と思った。しかし、美大に入るのは大変で二浪、三浪あたりまえの世界ともきいたことあったので、入れるか不安だった。たまたま、多摩美に社会人にもう一度クリエイティブなことを学ばせる場として、社会人特別枠のある夜間の学科があったのでここならもしかしてと思った。
それでも、とにかく予備校に行ってちゃんと学ばなきゃ、と思った。専門学校がお茶の水にあったので、朝から夕方の5時まで専門学校に行って、それからすぐにお茶の水にある通称「御茶美(おちゃび)」という予備校の夜間コース通う。御茶美はかつては名門予備校で有名なデザイナーとかも排出してきたらしい。
しかし、夜間ということは現役生対象、しかも美大を受けるのは女の子が多いので、当時30歳のおじさんが、現役女子高生とならんで勉強して、すごく浮いていた。
友達はうらやましいと言っていたが。
まあデザインの話になるとつきないので、iPhoneの話にもどるが、とにかくそこで、私はあまり魅力的な作品が出来なくて劣等感におちいる。
子供のころは勉強もそんなにできないし、スポーツは大の苦手の「のび太」くんだった私の唯一の自慢がマンガや似顔絵で、小学校から高校まで、文集の表紙をいつも描いていたが、さすがに美大を受ける人は当然絵がうまいわけで私の数少ないプライドも傷つけられた。
とにかく、そこで学んだことはデザインとはただ単に小奇麗なものを作るもでは「ない」ということだ。
大学での卒業制作(美大では卒業論文の代わりに作品を作る)は、コンピュータのインターフェースのデザインだった。なぜこのテーマにしたかというと、いつも父や母からパソコンのやり方がわからないからちょっと見てくれと言われ、うんざりしていた。そこで、考えた。マウスを使ってアイコンを動かすインターフェースをGUI (graphical user interface)というが、GUIが出てきた時は、画期的といわれたが、実はまだ不十分なデザインではないのか?Windowsを使うには分厚いマニュアルを読むか、何万円もかけてパソコン教室に通わなければならない。これが、本当に万人に開かれたインターフェースと言えるのか?逆に言えばまだ工夫の余地はたくさんある。さらに言えば、本当にマニュアルなしで誰でも使えるインターフェースを作ったら画期的なものになるのではないか?さらにさらにいえば、それが、本当に実現したらすごく儲かるのではないか?等と考えて、デザインを考えていった。
ところが中間審査ではある先生に「全部ダメだね。そんなものは企業が何百人も使って開発してるんだから」と100%否定されてしまう。次の授業のとき、指導教員の一人(うちの大学は指導教員を複数とれる)太田幸夫先生に、何の前提も言わずとりあえず「この前の中間審査はどうでしたか?」ときくと「全部よかった。言葉もちゃんとしてたし、理屈もはっきりしていて全部よかった。でも、他の人のアンケートとかがなけりゃ、それは初めて見た人には分かりませんよ」と言われ、気分が明るくなった。
ちなみに、太田先生はサインデザインの世界的権威で、皆さんになじみ深いのは、非常口の人の絵、デザインの世界ではピクトグラムと言いうが、あのデザインをまとめた人。もともとは公募で素人の人のアイディアなのだが、さすがに素人の案をそのままでは使えないので、ピクトグラムの第一人者である太田先生がまとめた。もともと、字だけの表示だと火事のときに字の読めない子供や外国人が非常口が分からなくなるので、誰でも分かるようなデザインにしなければならない。人の命に関わるものだから、視認性の実験などを繰り返し、現在の形になった。そして、そのピクトグラムはISO(国際標準化機構)で正式に国際規格になった。フランスやイタリアはまだ変わってなかったが、イギリスではオックスフォード大学でも、ロンドン芸術大学でもこのピクトグラムが使われていた。使われてない所もあったが、先生曰く「そのうち変わっていくでしょう」と。
また先生は単にピクトグラムを描くだけでなく視覚(視覚に必ずしも限らないのだが)とコミュニケーションの関係を考えてこられ。実際に単純な絵の組み合わせで作る「視覚言語システム」「LoCoS(ロコス)(Lovers Communication System)」を作られた。海外でも発表し高い評価を受け、新聞にも大きくあつかわれ、世界中を講演してまわって反響がすごくて、大変だったといわれた。
卒業制作の最終審査は、出来のいいものではなかった。
一年かけて作るはずのものが、前日にFlashのマニュアルを見ながら作った、やっつけしごとだった。
しかし、デザインについて学んできてようやく、いいデザインと悪いデザインの区別がつくまでにはなってきた。
太田先生が個人的に開いている参加自由形のゼミに参加したりして、そこにはハーバードの大学院でた人とか、絵画療法をしているひととかもきていて、デザインの奥深さをしった。中身にいくと話がそれてしまうので、いずれできればよいでしょう。
私は次に、ネット上で文字言語を使わず視覚のみでコミュニケーションがとれるシステムが作れないかと興味が広がり大学院へ行くことになる。学部の美大特有のたのしそうな雰囲気が好きだったので、少人数の大学院はすこしさびしいが、大学院は夜間も昼間もひとつの組織なので、八王子のキャンパスにも行ける。夜間部の上野毛のまったりした雰囲気も好きだったが、八王子の巨大でモダンなキャンパスも行けてよかった。
いろいろ考えていくうちに、ネットのツールを新しくつくるよりも卒業制作のパソコンのインターフェースをしっかり作り直す方がいいと思い、そういうことにした。
そこで、パソコンのインターフェースだが。始めは初心者向けに作り、その後一般のパソコンのインターフェースに変わるというアイディアはできていた。
想定のOSはWindowsではなくMacOS。
なぜ、WindowsでなくMacなのか?答えは、私がMacやAppleが好きだから。
もう一つ、誰もが逆らえないような力を持った者を見るとそれを負かしてやりたいという思ってしまう私の性格のせいだろう。
世界中の人の90%以上の人がWinを使っているなら、それに合わせるのではなく、それにとってかわるもっといいものを作ってやろうという、幼稚な野心があるので。
私がはじめて、パソコンを知ったのは小学校中学年頃だと思う。まだ、共通の基本ソフトはなく、画面もブラウン管に緑のドットで文字が示されるもので、記録媒体はカセットテープだったと思う。当時はマイコンともいった。
今はやりらしいからと、父と秋葉原に行って見てきたが、まだ操作が難しく、キーボードで命令文を書かなきゃいけない。しかもできることも限られていて、値段も高いし、結局は買わずに帰ってきた。
時代はかなり進んで二浪して入った大学に不適応をおこしてしまい、行けなくなってしばらくニートだった。その時期精神が不安定で何とか外に出るのが、パチンコ。誰ともしゃべらなくていいしうまく行けばお金が儲かる。最盛期は、1ヶ月30日、1日開店の10時から閉店の11時までってこともあった。雑誌を買ってきて研究して大当たり確率が分かれば1000円分の玉で何回回転するかを数えれば、勝ち負けのボーダーラインが出るので、プラスならやり続け、マイナスならやらない。この原則さえまもっていれば理論上は負けないはず。友達はこの台はいままで何回回ったからそろそろでるとかいう。パチンコは玉がスタートチャッカーに入った時点で抽選するので、過去に何回回ったかは次に何の影響も与えない。そういうと彼は私に「カントみたいだね」といった。彼のように何回回ったからとか言う人を「パチンコ必勝ガイド」のような雑誌は「オカルト野郎」という。
私は、全部メモして最高で1ヶ月で10万以上勝ったこともあった。1日の最高も10万500円だったかな?
でも、めんどくさくなると惰性でやったり回らないのに新しい台を試したりして、だんだん勝てなくなってきて、最終的にはプラスマイナスゼロって感じだっかな?
とにかく、そこでパチンコの収支を計算するのに最近なにかと耳にするパソコンとかを使ってみようかと思い「特選街」とか買って調べた。そのころは Windows3.1 が出たばかりで話題になっていた。そのころのパソコン界は、3つの選択肢があって、1NECのPC98シリーズが大きなシェアを占めていた。ただし国内でだけの話で世界的には 2DOS/V(ドスブイ)機、これは世界的シェアを占めていた。3Macintosh(マッキントッシュ=Mac(マック))
というもので、こちらは独自の規格で性能は優れているが、高かった。1と2は基本ソフトは同じMS-DOSだが、互換性はない。ちなみにMS-DOSのMSとはMicrosoftのことでWindows以前からマイクロソフトは世界標準だった。
当時も、次世代から共通のWindowsになるので、どの企画かを選ばなくてすむとあった。私は悩んだが、NECは日本人向けによくできて入るが、次世代では同じWindows使えるようになるなら意味ないし、Macを店先で見ると魅力的だけど、高いしWindowsが世界標準になるなら、なくなるかもしれないし。しかしあるとき店頭でMac見たときメニューバーの中に目玉の絵が描いてそれが動いている。よく見るとマウスの動きに反応している。つまりポインタの矢印が、今どこにいるかを示している。私はコンピュータという高度な機械にこんな遊び心があるのかと驚いて、ぜひ、Macが欲しいと思ったが、ノート型にするかデスクトップにするのか悩んでるうちに、うやむやになって、その時は買わなかった。ちなみにノート型パソコンは始めはトラックボールというのがついていて、マウスの代わりにするのもMacが初めてだし、その進化したトラックパッドを初めて使ったのもMacだと思う。
そして私の通ったデザイン学校はずばり「MACデザインアカデミー」。
課題の中でチラシ作るとき、私は好きな物としてMacを選び、当時はブラウン管を使っていた頃のiMacの広告を作ったりした。私の入った大学は、日本で初めてデザイン教育にMacを導入した大学として多摩美術大学造形表現学部デザイン学科はappleのサイトにも紹介されている。コンピュータールームには200台くらいのMacがあり、2年毎ぐらいで全て最新モデルに変えている。
大学の課題でも、私はMacのチラシを作った。
うちの大学でWindowsパソコン持っていると珍しがられる。
いろいろ、パソコンの歴史を調べてみるとMacの登場の意味と、ほかのいろいろな人々の努力が分かって面白い。
NHKスペシャル「新・電子立国」は当事者のインタビューも含めて細かく発展の歴史が描かれていて素晴らしかったので、書籍にはなったが絶版のようで、ぜひDVD化して欲しい。見たい人はたくさんいると思うが。
そして、大学の卒業作品も、初心者向けパソコンのインターフェース、タイトルは「Mac Begin」!
そして、大学院の試験の内容は「一番影響を受けたデザインと自分の研究との関係」というもので、私は一番影響を受けたのは?というところで上述のMacの話をして自分の意見を書いた。大学院は少人数だし人材育成が目的なので学部よりは入りやすい。もちろん学部の内容を会得したとの前提の上でだが。
このようにMacが好きになってきたわけだが、Macの魅力とは何か?
例えば、ビル・ゲイツは覇権主義者でパソコンは基本ソフトを手に入れればみなそのソフトを使わざるを得ないので覇権を握れると考え、事実Windowsは世界標準の基本ソフトになり、彼は世界一の億万長者になった。
しかし、デザインを勉強してきた私の目から見ると、これだけ、多くの人とお金をかけたにもかかわらず、Windowsはどうしても。どこかダサイ。何と言うかMacにあるスピリットとかウィットとかを感じない。もっといえば、愛を感じられない。どうやれば売れるかしかかんじられない。それが、これだけWinが普及しても、クリエイティブな人は皆Macを使う。感性の鋭い人たちがMacを好む。
スティーブ・ジョブスがどういう人か、伝記「iCon」を読み途中だが、wikiでざっと見てもらえれば分かるだろう。
いいデザインとは、簡単に言えばそこにphilosophy(フィロソフィー=人生哲学、思想、信条)があるかどうかということなのだ。フィロソフィーのないデザインはいくらきれいに見えても、どんな有名なデザイナーを使っても、いいデザインにはならない。iPodにあって、他者の亜流品にないのはフィロソフィーといっていいだろう。
Macintoshが生まれた1984年、appleはスーパーボウルというアメリカンフットボールのアメリカ選手権、アメリカで最も視聴率の高いイベント。従ってアメリカで最も広告費の高いCMで、伝説のCMをうつ。ご存知の方も多いと思うが。「1984年」とはイギリスのSF作家ジョージ・オーウェルが書いた有名なSF小説のタイトル。
内容は、強大な独裁者ビッグ・ブラザーによって支配されている世界。人々はテレスクリーンと呼ばれるTV兼カメラによって完全に常に洗脳され監視されている。ある主人公の男が逆らおうとするが、拷問にあい彼もまた洗脳されてしまうという、SFファンなら誰でも知っている話だが。CMの中で独裁国家が映し出され、そこに女の人かなんかが出てきてその未来像の映っているスクリーンをブチ破る。たしかこんなものだと思うが、詳しい方におききになればちゃんとした内容を教えてくれると思うので、簡単にだけ触れたが。とにかく我々「Apple」が目指しているのはオーウェルのような社会ではない、という宣言なのだ。
まあ、以上のようにAppleの歴史を見れば見るほど魅了されていってMacファンになったのだが。
といっておきながら実は、iPhoneは、最初は値段きいたら高かったので、買うのを諦めた。
それが、なんで気が変わったのか?
ある本のお陰と、あるニュースを聞いてである。
上述のように、私はコンピュータはWindowsとMacの対立図式で考えていて、自分はMac派と思っていたが、そう単純でもないことに、ある本によって気づかされた。
その本は梅田望夫「web進化論」(ちくま新書)。
以前から本屋で「web2.0」というタイトルの本が多くあって、どういうものか一つ入門書を読んでみようと思ってた。「web進化論」はよく売れていてしかもサイクルのはやい新書の中でずっと売れ続けているので、よい本なんじゃないかなと思い買って読んだ。
その本の中で、全く革新的だと強調されているのは、AppleでもなくマイクロソフトでもYahoo!でもなく、googleであった。
私は、昔から不思議でならないことがあって、それは、検索サイトのことだった。使う分には便利でありがいけど、まず一つ目の疑問は、「キーワードを入れただけで世界中のあらゆるサイトから何百万件のページを一瞬にして探し出すのはどうやっているのだろう?世界中のあらゆるサイトを入れた超巨大なコンピュータがあるのだろうか?自分のパソコンの中の書類を探すだけで何分もかかるのに、世界中全てのサイトから一瞬で何百万件。どうやっているのだろう?しかも私一人ではなく世界中の何千万、何億の人が検索サイトを訪れるのに、全て答えるなんてどうしてできるのだろう?」というものである。もう一つは「相当大きなコンピュータを使っているはずでコストもかかるのに無料で検索できる。どうやって収入を得ているんだろう?」というものだ。
一つ目の疑問には、ロボットにずっと世界中のサイトを調べさせているときいて半分は納得できた。また、Yahoo!などはやはり大量のコンピュータを使っているらしいときき少しは納得できたが、それにしてもすごいと思う。
二つ目の疑問は、Yahoo!のトップページは当然多くの人が見るのだから広告費がすごく高いときいた。つまりテレビの民放と同じで広告収入で儲けているときいて納得できたが、googleのトップページには広告が全くない。それがとても不思議だった。そのgoogleが考えていることがすごいことだとこの本では何度も強調されている。
どこがすごいのか?
実は私は実践してないし、この本にもどう実践すればいいのかは書いてないので、あまりはっきり理解できてない部分もあるのだが、なんとなくこうかなということを言うと、今までのコンピュータというのはネットのこちら側で計算したり、開発したりするけど。巨額を投じてソフトを開発するよりも、オープンにして不特定多数の人にソフト開発をやらせる方が効率的で、しかもよいものができるのではないかという考え(オープンソース)。専門的なことは分からないので卑近な例で言うと、自由に誰もが書き込めるネット上の百科事典 wikipedia があるが、アカデミックなことから深夜放送のネタのコーナーまで、ありとあらゆることが記載されていて、しかも文章を書く時はだいたいパソコンなので辞書を調べるより簡単に使ってしまうのだが、一般人が書いたというので今ひとつ信頼ができなかった。しかし、これだけのあらゆる項目を専門家にチェックさせ続けるのは、大変なコストがかかる。だから、あくまでも仮に調べるときに使うようにしていたが、実際使ってみるとそうとう正確に客観的にかかれている。そこで、ネットの向こう側の不特定多数を信じるかどうか、googleと今までの企業との違いだと言う。もう一つはコンピュータは一度プログラムを作れば自動的に作業をするので、細かい利益、例えばあるページの中の広告をクリックしたら10円とかいう、わずかな利益を大量に自動的に集めたら一見しょぼいように見えても塵も積もれば山となるで、人がほとんど努力せずに大量のお金が入ってくるという考えがもとにあるようだ。つまり、ネットの向こうでみなが気づかぬうちに機械が自動的にお金を回収していく。
これでも、わたしはgoogleがどうやってそれをやっているのか完全には理解できていないのだが。googleは衛星写真を使って地球上のあらゆる場所を見ることが出来るサービスをはじめた。母と一緒に自分のうちの衛星写真を見たときには驚いた。さらにさらに衛星写真なら一応理屈はとおるが、地上写真まで出てきたときには恐怖さえ感じた。うちは複雑な道を通ってこなければ車で来られない場所なのに、しかもポインタを動かすと、写真がパノラマになっていて回転して周りが見渡せる。
何か自動車の上にカメラをつけて撮っていると誰かいってたが本当かどうかわからない。しかし、見ていたのが夜なのに写真は昼間なので隠しカメラではないようだ。しかしいつかは「1984年」じゃないが、24時間どこでも監視される時代がくるかもしれない。
YouTubeという動画サイトも買収した。お陰で聴きたい音楽はだいたいきける。しかも無料で。そこが、また不気味な所で、世界中の本のデジタル化をしているのもたしかgoogleだったと思う。
私の頭の悪いせいで、googleが何をしようとしているのか正確にはわからないのだけど、なにかとてつもないことを考えている印象を与える本であった。
そしてあるときgoogleがOSを開発すると発表した。マイクロソフトもすこしあせった感じだった。何億人もの人が使っているWindowsに勝てるものはないと我が世の春を謳歌していたマイクロソフトもgoogleは今までの敵とは違うと感じたはずだ。買収すりゃいいってものでもない。考えてみればパソコンで使うのはwebブラウザとワープロがほとんど。それぐらいなら簡単に作れるし互換性を高くすれば必ずしもMSのソフトを使わなくてもいい。MSが互換性を低くすれば、独占禁止法に引っかかる可能性もある。不動に思えた、MS帝国も意外にもろいのかもしれない。そこには歴史的な大きな変化があるようだ。
そもそもコンピュータとは何か?
答えは「計算機」
コンピュータを最も単純に表せば、
入力→計算→出力
となる。
もう少し付け足すと、
情報の入力→命令→計算→結果の保存→出力
となる、
計算機自体はかなり昔からあった。
例えば2の位置に5を合わせると7が示されるような手動式の計算機は存在した。
現在の我々が使っているコンピュータの大きな特徴は、数だけでなく、あらゆるもの画像、音、文字、動画、など基本的にデジタルデータ化すれば何でもあつかうことが出来るという所にある。
この考え方の元を作ったのはwikiによれば17世紀ドイツの思想家、モナド論や微分積分法の発見で有名なライプニッツである。彼は形式言語に関心を示し2進法を発明した。それによってあらゆるものが計算可能になった。
その2進法を計算するのが現在のコンピュータである。
理論上はこれで全てのものがコンピュータで計算できる。しかし、当時は複雑な計算ができる機械を作ることが技術的にできなかった。
20世紀になって技術が進歩し、現実にコンピュータが作られるようになった。しかし当初は、コンピュータは巨大で高価で複雑で、特別に必要な計算に使う科学技術の専門家のもであった。
現在皆さんはコンピュータというとパーソナルコンピュータをイメージするだろうが、パーソナルコンピュータという概念を最初に示したのはアメリカのアラン・ケイ(1940〜科学者、教育者、ジャズ演奏者、京都大学客員教授)である。その条件は、計算機のICチップの小型化、安価化、そして普通の人が使えるインターフェースである。当時としては個人がコンピュータを所有するという考えは革新的だった。「ダイナブック構想」といわれる、彼のアイディアはスティーブジョブスにも大きな影響を与え、Macintoshの誕生にも大きく貢献した。
そして、現在の個人がコンピュータを持つ時代が実際に到来した。
そこで、私はパーソナルコンピューターのインターフェースをさらに使いやすいものにしようと思ていたが、googleがOSを作るときいてもう一度考え直してみようと思った。
実は現在、パソコンの誕生にも匹敵する大きな変化が起こっているのではないか?
先ほどもいったように、私はgoogleがしようとしてることは正確には理解していない。
しかし、私の浅薄な知識で考えをまとめるとこういうことなのかもしれないと、思うことがある。
むかし、大型コンピュータを使っていた時代からパーソナルコンピュータへの移行にはICチップの小型化、安価化、GUIの発明があった。複雑な計算も小さいコンピューターで安くできる。個人が計算する機械をそれぞれ持っている。これをダウンサイジングという。
そしてその時代、パソコンの時代の主役はマイクロソフト、Apple、Adobe、など。
そして今起きている変化はネットワークの充実、また携帯電話の普及などによってコンピュータのあり方が変わってきているのではないか。つまりネットワークさえ完全に整備されていれば、コンピュータの仕事のうち「入力」と「出力」さえできればネットにつながった高性能なコンピュータが計算と情報の保存をしてくれる。ネット環境さえ整えば、高度な計算機能、情報保存能力はなくてもどこでもコンピュータに計算させて必要な情報を手に入れることが出来る。いわば今までがパーソナルコンピュータの時代だとすれば、これからはモバイルコンピュータの時代になっていくのではないか。そこで一つだけ気になっていたことがあった。それは、モバイルコンピューターというのは過去にも何度も作られてきたがほとんど成功しなかった。PDA(Personal Digital Assistant)とか日本では「電子手帳」と呼ばれたりした。比較的成功したのはシャープの「ザウルス」だろう。私は姉妹機種の「Wiz」を持っていたが、何が不便かというと、文字入力である。ペンで手書きで書いた文字がデジタル化されるのだが、かなり難しい漢字も認識するのだが、認識するまでに1秒ぐらいかかってしまうのである。そうすると、数文字ならともかく長文を書くのは苦痛で結局紙に書いた方がはやいと思った。
多くの研究者がよりよい入力法を考えたのだろうが、あまりうまくいった試しはなかったように思う。
しかしその問題は意外な所から解決の糸口が現れた。
携帯電話である。
元々電話であるから電話番号を入力するためにテンキーがついている。そこに、インターネット接続機能、電子メール機能が付加価値として加えられた。そこでは文字を入力する必要が出てくる。そこで日本語はちょうど「あかさたなはまやらわ」の10行あるのでそれぞれのキーにそれぞれの行を当てはめたまた変換予測機能などサポートする機能をつけてみると、以外に苦労なく文字入力ができる。するとネットワークへの接続も整いつつあり入力もさほど苦労なくできるようになった。そして、カメラ、オーディオプレーヤー、ワンセグTV、など他のデジタルデバイスとの融合が計られるようになってきた。その一つの象徴が、iPhoneではないのかと思った。(ちなみにiPhoneにはワンセグ機能はない)Appleらしい大胆なボタンは1個あとは全てタッチパネルというものがどの程度インターフェースとしてすぐれているか?使いやすいか?Appleのことだからいろいろ遊び心があり、使った時の気持ちよさまで考慮に入れているのではないかと期待しつつ、高いけど大学院の研究テーマがコンピュータのインターフェースなので、インターフェースを体験するために買った。
今の所はかなり気持ちよく操作できてる。キーボードも当然小さいけど押すとその文字が拡大された吹き出しが現れる。公平に見てもさすがAppleだなと、思わせる。
ちなみに、今100円ぐらいで売られているモバイルコンピュータもクラウドコンピューティングという概念もネットの充実とインターフェイスの発達による。パーソナルコンピュータからモバイルコンピュータへの移行の中に位置づけられるのではないだろうか

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